
OKCからこんにちは。
YOKOです。
皆さんは、OKCに来たらどこに行ってみたいですか?
サンダーファンならまずは当然、チェサピークエナジーアリーナですよね。サンダーグッズが買えるサンダーの公式ショップや、他のローカルショップも外せないでしょう。
画面の向こうで映る現地の風景も、一度は自分の目で見たいと思うかもしれないですね。
例えばちょっと前だと、BRICKTOWNのサインが映ってた高架下。他には、時々映るブリックタウンの運河や、ライトアップされたスカイダンス・ブリッジもそうかな。ここ最近でいうと、白い大きなOKCの文字と映る観覧車もその一つでしょうか。
今なら新しくできた路面電車に乗って、ダウンタウンをぐるっと見てみるのもアリですね。新しいビルと、古い建築物が混在していて、車窓からでもなかなか面白い景色が見れるはず。気が向いたら途中で降りて、美術館や図書館に行ってみるなんていうのも素敵です。
でも実際は、限られた時間でどれだけサンダーのホームの街を満喫するかが重要になって、結果的にはアリーナでの観戦やサンダーグッズの購入などを中心に、開いた時間にちょっとブリックタウンをぶらっとするのが精一杯かもしれません。
開いた時間に何をするかは人それぞれ自由ではありますが、私個人的に是非行ってみてほしいと思うところがあります。
それは、ダウンタウンにあるオクラホマシティ・ナショナル・メモリアル&ミュージアム。1995年に起きた爆破テロ事件の跡地に造られた屋外にあるメモリアルと、爆破テロ事件のことがまとめられたミュージアムです(地元の人は、二つ併せて単に『メモリアル』と呼ぶことが多いです)。
このメモリアル&ミュージアムは、まさにオクラホマ民にとって悲しい事件が起きた場所。あの時に失われた命を忘れないように、そしてあの悲しい日々を乗り越え、共に助け合って、悲劇から立ち直ったオクラホマ民の不屈の精神を忘れないように、今も州内外からたくさんの人々が訪れる場所です。
『サンダーとは直接関係なさそうだし、オクラホマ自体に興味があるわけじゃないから、その手の所には行かなくていいや…。』 ー そんな風に思う人も多いかもしれません。時間に余裕のない人達には、実は私もそこまで強くは勧めていないのが事実です。
でも、本当はすっごく行ってほしい。
ミュージアム(有料)に行ってから、屋外のメモリアル(無料)を歩くのがベストですが、時間がなければ屋外のメモリアルのあちこちにある説明を読みながら、ゆっくり歩いてみるだけでもいいんです。
なぜ私がメモリアルを勧めるのか。
それはここに、私たちが愛するサンダーが、オクラホマシティ・サンダーたる所以があるからです。
この場所に行くことで、オクラホマシティで起きたことを、オクラホマの人達のことを知ることができ、サンダーというチームとその選手達が、オクラホマの人々とコミュニティと、なぜこんなにも強く結び付いているのかを感じ取ることができるからです。
そして、以前書いた翻訳記事の中でも触れたように、サンダーに新しく加入したばかりの選手やコーチ陣、スタッフなどが必ず訪れるのが、ここ、メモリアル&ミュージアムだからです。
なぜプレスティが、皆をこの場所に連れて行くと決めたのか。
そこで選手たちは何を感じるのか。
そこで感じたことが、どんな意味をなすのか。
その点について、ポール・ジョージがメモリアルを訪れた時のことをAthleticのブレット・ドーソンが書いた記事を通して伝えられたらと思い、今回はその記事を翻訳してみました。一部、私なりに意訳したり、補足したりしている箇所があるのは通常通りです。
OKCメモリアルを訪れたポール・ジョージが、そこで“オクラホマの人になった気がした”理由
How the OKC Memorial helped Paul George ‘feel like an Oklahoman’ by Brett Dawson
December 24, 2018
それは、この街で最も悲しい記憶を持つ、オクラホマシティ・ナショナル・メモリアル&ミュージアムのアウトドア・シンボリック・メモリアルでの、肌寒い静かな朝のこと。
アルフレッド・P・マーラー連邦ビル跡地の芝生の丘には、この街を根幹から揺るがした、1995年4月19日のあの日の爆破事件で奪われた命の数と同じ、168の椅子が並んでいる。12月のある晴れた日、そこを訪れた人々は椅子の周りを歩き、立ち止まっては写真を撮っていた。
数分置きに、路面電車のカーンカーンというベルの音が静寂を破る。それは、約24年前の4月のあの朝以来、この街が成し遂げてきた復旧の中で最も新しい進展を示す音だ。
その路面電車にミュージアムの前で乗ると、ダウンタウンの街をぐるっと回った後、サンダーのホームであるチェサピークエナジーアリーナに辿り着く。ミュージアムとアリーナは、南北に走るロビンソンアベニューを通れば距離にして1マイルにも満たないが、そのふたつはダウンタウンをブックエンドで挟むように存在している。
「ロビンソンアベニューの両端にそのふたつがあるのが気に入っているんです。」と、ナショナル・メモリアル・ミュージアムのディレクターのケリー・ワトキンズは言う。
「こちらの端では、まさに最悪の事が起きました。でもあちらの端にはサンダーがあります。こちらとあちらの狭間で、私たちはどうやって最悪の状況を乗り越え、最善にたどり着くかを模索してきたのです。」
この街で、このふたつの関係を軽く捉える人は誰もいない。
サンダーでプレイするということは、もしくはサンダーという組織の仕事につくということは、この街の物語や歴史を知ることでもある。その中でも爆破事件は、とても重要な章だ。
ドラフトや、トレード・FAでやって来た新しい選手が、最初に行く場所のひとつがナショナル・メモリアル・ミュージアムなのだ。それはコーチやエグゼクティブ、フロントオフィスのスタッフにも同様に当てはまる。
そして時にこのメモリアルへの訪問が、なかなか消えることのない印象を残すことがある。
ポールジョージのケースがまさにそうだった。
2017年6月30日にインディアナ・ペイサーズからトレードされ、7月11日にオクラホマシティにやって来たポール・ジョージは、空港で大勢のファンに出迎えられた。その日の夜には、ダウンタウンのホットなナイトスポット、ジョーンズ・アセンブリーでの歓迎パーティに参加し、その後、新しくチームメイトになるラッセル・ウェストブルックと、チームオーナーのクレイ・ベネット、GMのサム・プレスティとのディナーに招かれた。
その盛り沢山のイベントの合間を縫うように、空港でファンからの盛大な歓迎を受けた後に、ジョージと家族は早速メモリアルへと足を運んでいる。そしておそらく、ジョージが自分の新しいホームとなる場所を理解することができたのは、その日のどの出来事よりも、メモリアルへ行ったことが一番大きかった。
「素晴らしいトランジションだったよ。オクラホマ民であるために欠かせないものは何なのか、オクラホマ民になるということがどういうことなのかがすぐにわかったから。」ジョージは語る。
「ハードワーカーであること、仲間を助けること、全力を出し尽くすこと ー それは、このチームと、このコミュニティと、ここの歴史の全てに直接結び付いていると思う。そういうのが全部ひとつになって、オクラホマ民の資質が何なのかに気付いて、そして理解するんだよ。」
この7月、ジョージはサンダーと再契約することを選んだ。その理由はたくさんあるだろう。ウェストブルックとの間に強い絆ができたこと。プレイオフで一回戦敗退をし、やり残したことがあると感じていたこと。そしてサンダーカルチャーに安心感を抱くようになったこと。
しかし、ジョージとオクラホマシティの街との繋がりも、確かに再契約の理由の一つだった。そしてその繋がりは、まさに彼がこの街に来た最初の日にでき始めていたのだ。
メモリアル&ミュージアムの来館者は、ツアーの最初に複製されたオフィスの中に立って、1995年4月19日に録音された、オクラホマ水道資源委員会の会議音声を聞かされる。
最初はありふれた内容だが、突然爆発音が聞こえ、パニックとなった様子が流れてくる。ミュージアムの電気が点滅し、そしてドアが大きく開いて、その先には爆破直後の混乱と恐怖の展示が続く。
この爆破事件が起きた時、ジョージはまだ5歳にもなっていなかった。連邦ビル、爆弾、そしてティモシー・マクヴェイ(爆破事件の犯人)程度のことは彼も知っていた。歴史の授業で習ったからだ。
「事件の詳細は知らなかったよ。」ジョージは言う。
「どこで起きて、実際に何があったのか。その間にどんな出来事があったのか。そういうことを必ずしも知ってはいなかった。だからそれを体験できたことはとても貴重だった。疑似体験をしながら、誰かに何が起きたのかを説明してもらえたのはとても貴重だったよ。」
ミュージアムに行くと、爆破事件に関して驚くほどの詳細を知ることができる。ダウンタウンにあった312のビルが被害を受けたこと。そのうち14のビルが壊されたこと。爆破事件で6.52億ドルのダメージを受けたこと。
だが、ジョージの印象に強く残ったのは、その被害の大きさや死者の数(168人が亡くなり、30人の子供が孤児になった)以上に、その爆破の後に起きたことだった。ミュージアムでは、その後の捜査や逮捕劇のことだけではなく、その後に続いた何時間、何日間にも及ぶ復旧への取り組みについても詳細を学ぶことができるのだ。
「あの日、オクラホマの人々が特に普段と違う行動したとは思いません。」ワトキンズは言う。「ただ私達の世界がストップしてしまって、お互いにどう助け合うかということに全力で取り組んだだけなのです。」
爆破事件当日の午後早い段階で、献血センターの外には長蛇の列ができ、それは駐車場まで続いた。食料や水の寄付は州全土から届き、作業用の手袋や懐中電灯など、警察官や消防士が生存者を探すのに役立つと思われる物が企業から提供された。
コミュニティの尽力は何週間も続き、それは『オクラホマ・スタンダード』(この街が今でも体現しようとしている寛大さの精神)として知られるようになった。
「メモリアル・ミュージアムを見て、この街はもちろん、この州のカルチャー(行動様式)を実感することができたんだ。」ジョージは言う。
「オクラホマシティの人々は、僕のことを個人的に知っているかどうかに関係なく、もし僕が何か助けを必要としていたら、もし僕が何か答えを必要としていたら、きっと手を差し伸べて助けてくれる気がするんだよ。彼らはお互いに助け合うっていうことを本気で行動に移す人たちだって、僕にはただそんな風に感じられるんだ。」
この街とサンダーの精神的な繋がりは強い。それはシアトルから球団が移転してきてからずっと変わらないものだ。移転直後の会議で、ワトキンズはプレスティにこう伝えたという。
「胸に”Oklahoma City”の文字を付けるなら、ここで起きたことを知ることが重要だと思います。」
その意見はプレスティの心に響いた。だからメモリアル&ミュージアムを訪問することは、サンダーを理解する上でも重要なパートを占めている。
アリーナにいるファンが、爆破事件にショックを受けた市民であることは今も変わらない。試合の夜にチェサピークエナジーアリーナで働く警察官や消防士の中には、1995年にマーラービルで捜索にあたっていた人もいる。そのことをプレスティは重々理解しているのだ。
ミュージアム・コミュニティ・コーディネーターのザック・ファウラーは、ジョージのツアーガイドを担当した一人だった。彼は今年、新しくアシスタントコーチとしてサンダーに加入したボブ・ベイヤーを、採用直後にミュージアムに案内した。
「彼にもっと時間があったら、ボブは閉館時間が過ぎて出て行くように言われるまでここに残る勢いでした。」と、ファウラーはその時のことを話してくれた。
「『必ず改めて出直してくるよ。』と彼は言っていました。ここで起きたことをもっと知りたがっていましたが、同時に、オクラホマ民であることの真髄もほぼ理解していたと思います。」
それを、ポール・ジョージは即座に理解し始めていた。
ツアーも終わりに近づいた頃、ジョージと彼の家族は展望デッキに立って、OKCの街並みを背景にして並んでいる、アウトドア・シンボリック・メモリアルの椅子を眺めていた。
ワトキンズによると、その場所こそが、来館者がミュージアムで経験したことを実感する場所であり、あの4月の朝に失った子供たちや親たちのことを、自分の家族と同じように考え始める場所だという。
多分、そう言うのは早過ぎたかもしれないが、ジョージはツアーガイドにこう言ったという。
「なんだか僕はもうオクラホマの人になったような気がするよ。」
この出来事が、ジョージがサンダーとの再契約を決めた大きな要因になったと言うのは少し行き過ぎだろう。しかし、ジョージはオクラホマシティでの最初のシーズンを通してずっと、次にプレイするのは(ホームにいるように)居心地のいい場所である必要があると強調してきた。そして、メモリアルでの時間はその重要なステップとなった。
「僕は歴史が大好きなんだ。歴史を知ると、ここでその人達が感じたことを、僕も感じられるような気がするから。」ジョージは言う。
「(メモリアルに来ると)街全体に起きたことを感じ取ることができる。オクラホマのことを理解するのに素晴らしい方法だね。」
「それはちょうど、玄関を開けてくれた彼らに、『荷物はその辺に置いて、どうぞ(自分の家にいるように)くつろいで!』って言われたような感じなんだよ。」
オクラホマシティ・サンダーというチームをもっと好きになれる場所
サンダーというチームに移籍してきて、ハマる選手もいるし、ハマらない選手もいます。それは、サンダーバスケットボールというスタイルにハマらなかったり、その時のチームのダイナミクスに合わなかったりと、色々なケースがあると思います。
オクラホマという街に移住してきて、居心地が良いと感じる選手も、物足りないと思う選手もいるでしょう。それは、その選手の性格やライフスタイルにもよるだろうし、家族の都合の場合もあると思います。
ただ、オクラホマシティに来る選手は、チームがシアトルから移転してきた当時からプレスティが築き上げてきた、サンダーカルチャーを共有できる人達のはずなのです。だって、彼らを選んでいるのは紛れもないプレスティ自身なのだから。
そして、そのサンダーカルチャーを築き上げていく上でプレスティがベースにしたものが、勤勉さ(ハードワーク)、謙虚さ、打たれ強さ、根気強さ、寛大さなどの、オクラホマ民の資質であり、オクラホマの人々が大切にしている価値観なのです。
だからこそ選手は、オクラホマの人々やコミュニティとすぐに繋がることができ、同じようにオクラホマの人達は、選手に同じ資質を見て親近感を抱くのだろうと思います。
サンダーというチームがオクラホマのコミュニティと距離が近いことや、オクラホマの人が選手を家族のように受け入れていることは、日本にいるサンダーファンの間でも(サンダーファン以外の間でも)有名だと思います。
その距離の近さの所以が、メモリアルに行くと少しわかってもらえる気がするのです。
選手やスタッフと同じようにメモリアルを訪れて、オクラホマの人達に起きたことを疑似体験し、彼らがその時何を感じ、どう行動したかを知ることで、見えてくるものがきっとあるはずなのです。
過去に起きたことを知った上で今のOKCの街を見ると、その姿が違って見えるかもしれません。
過去に起きたことを知った上でオクラホマの人と交流すると、なぜ彼らが遠い異国の地から来たサンダーファンに親切なのか、より深く理解できるかもしれません。
オクラホマの人とコミュニティとサンダーという組織とチームと選手が、大きなひとつのファミリーとして、強い絆で結ばれているからこその、“オクラホマシティ・サンダー”。
海を隔てた場所にいようと、同じファミリーとして、オクラホマシティという街と、サンダーというチームがこの街にある意味を知るために、一度メモリアルに行ってみてほしいと思うのです。
ポール・ジョージのようにオクラホマの人になった気はしないかもしれないけれど、オクラホマシティにあるサンダーを、きっと、もっと好きになれると思います。