前回に引き続き、『オフの決断』シリーズです。
KDのあの決断を受けて、あの日私が何を思ったか、そしてその日からしばらくの間どう感じていたか。私の気持ちは前の記事で書きました。
哀しみや怒りや絶望、色々な感情が溢れて、何をどう考えていいか、本当にわからなくなるほど。その感情の渦の中で、最後に辿り着くのはいつも、なぜ?という疑問でした。
なぜKDは、サンダーを、そしてオクラホマシティを去ったのか。
なぜKDは、ウォリアーズを選んだのか。
なぜKDは、あの形で決断を発表したのか。
一番の『なぜ?』は、サンダーの人々が、サンダーファンの人々が、そして誰よりオクラホマの人々が、その決断でどれだけ傷つくかわかっていて、それでも移籍を決めたのはなぜなのか、でした。
その後、その理由について様々な噂が出ましたが、今回ここで紹介しておきたいのは、私のブログではお馴染みのサンダーの番記者、Royce Young氏が、KDの決断発表直後に書いた記事です。
Royceは、オクラホマ出身でOU(University of Oklahoma)卒の地元番記者/ESPNのライターであり、サンダーブログDaily Thunderの管理人で、その記事にはいつも以上に地元民の気持ちが込められている気がしました。
私はショックで呆然としている状態でこの記事を読んだのですが、決断を聞いて次から次へと湧いてくる私の想いが、記事の中にそっくりそのまま散りばめられていて、読みながら大声を上げて泣きました。
彼がオクラホマ民の気持ち全てを語ってくれている、そう思いました。
だから日本語に訳そうと決めたのですが、訳してから気づいたのは、いつもの彼らしくない部分が多いということ。話があちこちに飛んでいて、日本語にしようとするとどうもうまくつながらない部分が散見していました。
おそらくタイムリーに記事を発表するために、事前に用意していた文章を急いでツギハギしたせいもあるでしょう。でもそれ以上に、Royce自身がショックを受けていて、それが文章に表れたのかなとも思います。
もちろん私の推測の域を出ませんが、だからこそ、私自身もう何がなんだかわからない、整理しきれないあの気持ちの中で英語の記事を読んだ時には、何の違和感もなく心に響いたのだろうとも思います。
そんなわけで、多少前後を補足したり意訳したりしている箇所もありますが、とにもかくにも、彼の記事を皆さんにシェアしたいと思います。
あの日、何があったか
あの日までに何があったか
あの日、オクラホマ民が何を思ったか
あの決断に至る背景やその決断によるインパクトが、さらに具体的に伝わると信じて。
OKCを去ることに至ったケビン・デュラントの変化とは
July 5, 2016 by Royce Young
2015年6月15日、ケビン・デュラントは怪我をした足に医療用歩行ブーツを履いて、NBAファイナルを見ながら翌シーズンのことを考えていた。
彼は新しく着任したビリー・ドノバンに会ったばかりで、リハビリを懸命にこなし、コートに戻る日も目前だった。だから気合いが入っていた。
彼は携帯電話でこんなメッセージを送った。
「来年は俺たちの年だ!」
続けてもう一つ送った。
「その後には契約を更新して、最高のチームを築いて、そのまま勝ち続けるんだ!それがゴールだ!」
彼はOKCに残留するつもりでいた。『ここは俺の場所だ』と旗を立てるつもりだった。自分が始めたことを終わらせるつもりだった。ドノバンの雇用が新しい時代の始まりかつフレッシュなスタートを意味していて、我らのフランチャイズプレイヤーが戻るための第一歩だと、チームにいた誰もが理解していた。それをデュラントも感じていた。
オクラホマシティで足の怪我のリハビリをするということは、ドノバンとの時間が多くなるということで、それだけで十分デュラントを乗り気にさせた。デュラントはドノバンの到着と、ドノバンが示した新しい方向性に興奮していた。
デュラントはコミュニティにより一層深く入り込んでいった。複数の小学校にバスケットコートを造り、貧困層の通う学校のプログラムにも多額の寄付をした。ウィル・ロジャーズとジーン・オートリーのような面々と並んで、オクラホマ州の殿堂入りもした。
だが2016年7月4日、デュラントは、彼が知るたったひとつのフランチャイズを後にして、ゴールデンステート・ウォリアーズへの移籍に合意した。
一体何が変わったのか?
過去8年のデュラントの話を聞く限りでは、彼がオクラホマシティを離れることは考え難かった。それも、ウェスタンカンファレンスファイナルでサンダーを破り、シーズン73勝の記録を残した、ウォリアーズのためにサンダーを去るようなことになるとは到底思えなかった。
ただ、プロのスポーツ選手は色々なことを言うものだ。デュラントに近い人は、彼には周りの人が聞きたいことを言う悪い癖があると良く言っている。
2014年のMVP受賞スピーチでデュラントは、「倒れても倒れてもオクラホマ(の人々)は立ち上がり、戦い続ける。私にぴったりな場所です。」と言ってオクラホマシティを活気づけた。「隣の芝がいつも青いとは限りません。」とも言った。
相手チームの記者たちが自分たちの街について良いコメントをもらおうと仕掛けても、デュラントは愛情を込めてオクラホマシティをホームだと言った。そこで引退したいと言った。
リングを追う話題になっても、偉大であることを証明するためには優勝が必要という考えにデュラントの心が動かされることはなかった。
「俺たちの世界は優勝を中心にまわっている。」最新のSports Illustratedの記事の中で彼は言っている。「誰が優勝したか。誰が優勝するか。優勝したことがなければ、敗者なんだ。一番じゃなければビリなんだよ。」
「誤解しないでほしい。俺は誰よりも優勝したいと思ってる。でもね、もし俺たちがこれまで通ってきたような道のりを経験するとね、他の物事もありがたく思えてくるんだよ。」
デュラントはこんなフレーズを何度も繰り返していた。「俺はフロントランナーってタイプじゃないんだ。」
デュラントの決断を受けて多くの人は、単にメディアをおとなしくさせるためだけにそういう発言をしていたのか、それともゴールデンステートの、優勝達成という抑え難い魅惑に説得されられたのか、という疑問を抱いている。
サンダーは、バスケットボールよりも大きなレガシーを売りにしていた。一方のウォリアーズは、NBA史上見たこともない支配の約束、ダイナスティ(王朝)と、その道のりを最大限に楽しむ機会を売りにしていた。最終的にそれは、デュラントには拒絶できないほど魅力的だったということだろう。
デュラントをリクルートする役割を担ったキーパーソンが、トム・ブレイディ(BOS)とジェリー・ウェスト(GSW)の二人だったのはある意味皮肉な話だ。なぜなら彼らは特定のひとつのチームを代表する選手として認識されるスポーツアイコンなのだから。
サンダーにとって、そしてオクラホマシティにとっては、デュラントはトム・ブレイディなんてものではなかった。彼はトム・ブレイディであり、ラリー・バードであり、テッド・ウィリアムスがひとつになったような存在だったのだ。
しかしデュラントの側近はウォリアーズのメッセージの方を信じた。彼らはデュラントにオクラホマシティを出るように懇願した。オクラホマシティの口説き文句が響くことはなかった。少なくとも、もうこの時点では。
日曜日(7月3日)の朝、デュラントはプライベートのセキュリティガードと自転車に乗って出かけ、ハンプトンズの晴れたビーチを楽しんだ。カート・コベインのシャツを着て、Logic の “44 Bars” を聴きながら。
ハンプトンズのすべてが、スーパースターアスリートが7月4日に休暇を過ごすのにぴったりな設定だった。それは広大な敷地に建つ高級住宅で、豪華なインテリアで飾られた、数え切れないほどの部屋があった。
マイアミ・ヒートとのミーティングを控え、その日の午後にはサンダーとの最後の話し合いが待っていた。そんな中、デュラントは既に結論に近づいていた。前日にウェストと話し、彼の気持ちは単に傾いているだけではなかった。もうほぼ結論に達していた。
♪ 人生が変わって アレンジしなおされていくのって なんだかおかしい ♪
Logicの歌は続いた。
♪ 何があっても、もうすべて同じじゃない ♪
日曜の午後、(最後の話し合いを終えて)ハンプトンズの豪邸から出てくる時点で、サンダーのサム・プレスティGMは不吉な予感を感じていた。サンダー代表団全体が、自分たちの目の前で起ころうとしていることを感じ取っていた。白ぶちのデザイナーズメガネを掛け、常に髪を完璧にセットして、うろたえることのないプレスティでさえ、何かを感じていた。
プレスティは決然としている。マサチューセッツのコンコルドで生まれたニューイングランド地方の人で、エマーソンカレッジの卒業生だ。物静かで鋼のように堅い自信を持つ。
デュラントとの再契約のためにやるべきことをサンダーは全てやったと確信していたため、プレスティはこのプロセスの間ずっと冷静さとバランスを保っていた。
他のチームに与えられたリクルーティングの時間は2時間だが、サンダーは9年間、この時に向けて取り組んできたのだ。あとはデュラントがそれを評価するかどうかだけの問題だった。
それでもウォリアーズは、明らかに目の前にある脅威だった。キャリアを優勝で証明するという欲望に訴えかけて、デュラントを引き抜こうとするプレッシャーがあった。そしてサンダーは、自分たちのフランチャイズプレイヤーがいなくなろうとしているのを感じていた。
その3日前、サンダーはデュラントと最初のミーティングをした。5時間に渡る話し合いを終え、球団は彼の残留を前向きに捉えていた。
プレスティとアシスタントGMのトロイ・ウィーバーは、チェサピークエナジーアリーナの正面入口でデュラントを迎えた。通りの反対側に掲げられた巨大なバナーにはこう書かれていた。『未来を創ろう、今日こそ』
彼らは握手をし、そしてハグをした。さらに2人はさりげなくとは言い難い形で、デュラントの顔写真が頭上に貼られた入口から入るように、デュラントを促した。そこには、『これは君のホームだ。これは君のフランチャイズだ。』という、明らかに象徴的なメッセージが込められていた。
そしてデュラントは、その隣のスティーブン・アダムスの写真の下のドアから入場した。
サンダーのこのミーティングの前には、創設仲間であるラッセル・ウェストブルックとニック・コリソンがデュラントと会って食事をしていた。彼らは、共にいることがどれだけ重要か、そしてチームがいかにあと少しで本当に特別なものになるかを強調した。ウェストブルックがほとんど会話をリードしていたという。
サンダーは、(最初のミーティングで)デュラントがハンプトンズで予定されているミーティングをキャンセルし、その場で長期契約に合意するように、彼の気持ちを動かすことができればと願っていた。
ビッグマンのアル・ホーフォード獲得に乗り出すという秘策も用意していた。デュラントがコミットしたら、夜中のうちにホーフォードと彼のエージェントに電話をかけて、契約をまとめられると信じていたのだ。ただしプレスティは、デュラントがそこにいなければホーフォードがサンダーに来ることはないとわかっていた。そして彼は逆のことを恐れていた。デュラントが消極的なのではないかと。
デュラントはアリーナの裏口から出て、プライベートジェットでハンプトンズに発った。しかしそこには常に、デュラントが説得されるという、つまり外部の力が彼の気持ちを揺さぶるという心配があった。
デュラントに近い人たちは、彼がいかに影響を受けやすく衝動的な性格か話していた。デュラントがハンプトンズでのミーティングに同意したその瞬間から、彼の将来はどちらに転んでもおかしくなかった。実際には、既に片足は外に出ていたようなものだ。
それでもデュラントが自分の決断をチームに知らせる最後の最後の瞬間まで、サンダーは彼の気が変わることを願っていた。
8人のサンダーのスタッフとオーナーのクレイ・ベネットはハンプトンズまで出向き、(日曜の)3時頃デュラントに会った。8人全てがフロントオフィスの役員というわけではなく、デュラントが毎日共に働いた、トレーナーや用具マネジャー、サポートスタッフや広報の仲間もいた。
そんな中、噂は飛び交い、どんどん大きくなった。どれもデュラントがベイエリアに行くという噂話だった。それでもサンダーは彼が戻ってくると信じたかった。
プレスティが月曜日に決断直後の会見で言ったように、そこにはどうも自分たちの思う通りには行きそうにないという兆候があった。それでも彼らはハンプトンズに残った。
彼らはこれまでの9年間ずっと、デュラントにとって大きなイベントの時には彼のそばにいた。カレッジジャージの欠番セレモニーの時も、販売促進イベントの時も、手術の時も、MVPスピーチの時も、チャリティイベントの時も、どんな時もそばにいたのだ。だから今回も同じようにそこにいることにした。
ただ彼らは泊まる場所を用意していなかった。ハンプトンズの独立記念日の週末はとても混雑して、宿泊先は簡単には見つからない。サンダー代表団は結局、ホリデーイン・エクスプレスに泊まることになった。デュラントの滞在先から1マイル離れた場所にあるホテルで、ただ待った。
ちなみにホテルには6部屋しか空きがなかったが、代表団は全部で9人だったので、部屋はシェアすることになった。あの数億万長者のオーナーであるクレイ・ベネットが、ホリデーイン・エクスプレスで、ベッドをシェアしたのだ。そして他に空いている所がなかったので、遅い夕食を摂ったのはなんと T.G.I.Friday だった。
そして、避けられない運命の瞬間を待った。
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デュラントはこれまで9年間、あらゆる人に、公私にわたって、サンダーに完全にコミットしていると言ってきた。
元チームメイトのレジー・ジャクソンがトレードを要求した時には腹を立てた。「ここにいたくない奴らのことは好きじゃないね。」デュラントはそう言っていた。
フランチャイズがジェームス・ハーデンをトレードしたことについて、デュラントが根に持つことはなかった。それどころか、契約がまとまって10分と経たないうちに「5ミリオンの差で(成立しなかったの)?」と聞いていたほどだ。
デュラントは、自分とフランチャイズが築き上げてきたものに誰かが残りたいと思わないことを個人的に受け止める傾向があった。
デュラントは、サンダーが不調な時に、メディアが怪我の問題を見過ごすことにもいらついていた。サンダーがタイトルに届かないのには妥当かつ正当な理由があったのに、と彼は言っていた。
それでも優勝に対するプレッシャーは執拗で、デュラントは、特にフランチャイズの礎石として、そのプレッシャーから逃れられなかった。ささいなことが彼を苛立たせた。
例えば、カワイ・レナードがファイナルMVPを獲得した際に、サンアントニオのシステムで成功したレナードについて思いつきのツイートをした時のように。
彼はそのことで非難されたが、それは自分がリングを持っていないのにリング保持者を批評したからだとデュラントは解釈していた。自分が優勝経験者だったら、自分の意見は正当とみなされただろう。彼はイケてるグループを外から眺めている部外者のように感じていた。
デュラントは、ウォリアーズが2人のスーパーデュオがフランチャイズをリードするチームではなく、包括的なチームであるという考えにも惹かれていた。
彼はプライベートでよく、誰かがボスでなければならないというストーリーを非難し、チームメイト間での意見の食い違いを取り上げようとするメディアのことを話していた。
サンダーは、ウェストブルックとデュラントが一緒である限りはその周りにパーツを集めるという考えを強調し、デュラントに旗手として、ウェストブルックと並んでフランチャイズを率いることを納得させようとしていた。
それに対しウォリアーズは、うちに来て、私たちのパーツになればいいと言ってきた。
デュラントは、サンダーが自分のチームなのか、ウェストブルックのチームなのか、という考えにも抵抗があった。彼は”リーダー”であることについて、自分で口にすることで信じ込ませようとしているかと思わせるくらい繰り返し繰り返し語った。
なぜカリーとクレイ・トンプソンは同じことを聞かれないのかと、皮肉を込めて友人にテキストを送ったりしていた。
パスを楽しむリズムとフローは、デュラントが常日頃から望んできたものだが、サンダーはその調整にも苦労してきた。ドノバン体制になって、サンダーはムーブメントとスペーシングに改善が見られたものの、1試合中のパス数では未だにリーグ最下位で、一方のウォリアーズは1位にランク付けされていた。
ドノバン体制でオクラホマシティのオフェンスがやっと噛み合い、フロアー全体にボールが動き、キャッチアンドシュートでアシストを量産した12月のとあるゲームの後、デュラントは我を忘れるほど興奮していた。
「ブレイクスルーした感じがするよ。」彼は言った。「あんな風にプレイしたら誰も俺たちを負かすことはできないね。最高に素晴らしかった。」
昨年の夏、サンダーがスコット・ブルックスを解雇した時 〜そしてそれはデュラントが賛成した動きのひとつでもあるが〜、チームを形から変えるコーチがほしいと彼は友人に話していた。彼がその時に引き合いに出したコーチは、『difference-maker(違いを作る人)』とデュラントが呼ぶ、スティーブ・カーだ。
サンダーカルチャーは 〜それもまた、誰よりもデュラントが作り上げたもののひとつであるが〜、しばしば厳正で、堅苦しい。きちんと整っていて、プロフェッショナル。加入してくる選手の多くが使う表現は『最高級』だ。
ウォリアーズはその反対を行く。彼らは楽しくて大胆だ。ゆったりしていて自信がある。デュラントはそこに惹かれたとも言われている。
彼は、自分の決断は『毎日誰とプレイし、誰に囲まれていたいか』ということにかかってくると言った。
ほとんどの人が、それは彼が過去9年に渡って知っている人々を選ぶことだと思っていた。つまり、ウェストブルックやコリソン、プレスティやウィーバーを選ぶことだと。
それは逆に、カリーやトンプソン、グリーンを選ぶことだった。
デュラントは、これ以上リーダーでいたくなかったのだ。”Strength In Numbers”はただのキャッチフレーズではなかった。それこそが彼のほしかったものなのだ。
ーーーー
デュラントは、メディアがウォリアーズとカリーに夢中になることにも、内心イライラしていた。ウォリアーズが、いかに突然リーグのイメージキャラクターになったかジョークを飛ばし、見たところ、いかに彼らが完璧で間違ったことをしそうもないか、友人に愚痴をこぼした。
デュラントは、念願だった輝かしいMVPを受賞した直後に、足の怪我で3回の手術を受けるという、地獄のシーズンから復帰したところだった。
彼がカリーになるはずだった。彼が、リーグをかき分けて進み、レブロン・ジェイムスを王座から降ろす、控えめなゴールデンチャイルドになるはずだった。それなのに、彼は足に歩行ブーツを履いて、カリーがMVPと優勝を獲得するのを見る羽目になったのだ。
彼の人気は落ち、それがまた彼を苦しめた。彼は以前、2番でいることにうんざりしていると言っていた。リーグにおける自分の地位を固めたと思っていたが、次第に話題にも上らなくなっていた。
レギュラーシーズンの最後にデュラントが言ったことがある。
「ベストプレイヤーの話題になっても、今日の時点ですら、俺の名前はまだ出てこないだろ。俺的にはコートに出てベストプレイヤーだって証明したはずなのにさ。言ってることわかるだろ?」
最近出した2つのシグネチャーシューズである、KD7とKD8の売れ行きもあまり良くなかった。彼のジャージの売り上げも落ちた。デュラントは決して市場規模を心配するタイプではないが、彼の周囲は心配し始めていた。良く使われていたのフレーズは”shake it up”(これまでと違う何か新しいことをしてみよう)だった。
ブリックタウンにあるデュラントのレストランから、チェサピークエナジーアリーナまでは歩いておよそ15分かかるが、うだるように暑い月曜日(7月4日)、たくさんのサンダーファンが最後の巡礼をしていた。
ネオンサインの前で写真を撮り、それからアリーナに向かい、プレスティがデュラントを歩かせようとした(デュラントの)写真の前で最後の記念撮影をした。
デュラントの決断発表の数時間後、とある家族がその巡礼を終えて駐車場に戻ろうとしていた。おそらく10歳くらいと思われる少年がサンダーの帽子とデュラントのジャージを着ていた。
彼は溢れ出る涙を隠すように、帽子を目深に被っていた。
「僕わかんないよ、ママ。」少年が言った。
「なんでKDは出て行ったの?」
それから24時間もしないうちに、オレンジと黄色の昇降リフトが写真の下に現れ、アリーナの従業員が、ゆっくりとデュラントの顔写真を窓ガラスから剥がしていった。
ウェストブルックとアダムスの間に残ったのは、広い、空っぽの空間だった。
衝撃の決断の後、オクラホマは困惑していた。
なぜなら、デュラントは去るような人ではなかったはずだから。
彼は、愛と忠誠についてよく語った。
彼は、雑誌の表紙に自分と一緒に載るように、チームメイトに頼むような男だった。
彼は、近所の子供達と一緒にビデオゲームをした男だ。
彼は、スティルウォーターにふらっと現れて、フラッグフットボールをした男だった。
彼は、忠誠を誓い、フランチャイズの安定のためにプレイヤーオプションを破棄して、5年の延長契約を結んだ男だった。
彼は、2013年にOKCのメトロ地域を襲った竜巻発生から24時間も経たないうちに、1億円の寄付をした男だった。
彼は、6年前にこのツイートをした男だ。
オクラホマの人々は、自分たちがどういう所に住んでいるか知っている。周りからどう見られているかわかっている。
誰があそこでプレイしたいなんて思うだろう?そもそもなぜあそこにチームがあるのだろう?
オクラホマはステレオタイプに敏感な、劣等感を持つ州だ。しかし(だからこそ)、悪いことは続くとわかっていて、それなのにどこまでも楽観的な州なのだ。
だからほとんどの人が、デュラントのことでは最悪の事態を恐れていたた。だって、なぜ彼がここに残りたいと思うだろうか?そんなはずはないだろう、と。それでもオクラホマの人々は自分たちに言い聞かせ、そして信じた。いや、デュラントは違う、と。
デュラントは、オクラホマシティに新しいアイデンティティーを与えてくれた。彼が成長するにつれてフランチャイズが成長した。石油とガスの産業が急成長するにつれて、デュラントとサンダーも急成長した。
パリや北京で35番のジャージを見るたび、地元民の胸は誇りでいっぱいになった。デュラントはグローバル規模の州のアンバサダーであり、オクラホマの人々を代表する人だった。
そしてデュラントは、オクラホマの価値観を共有していた。
謙虚さ、ブルーカラーのメンタリティ、親切心。
FAが近づくにつれ外部の人が、デュラントはきっとオクラホマから出るのが待ち遠しいだろうと言ってオクラホマシティを刺激しても、「いいや、ケビンは違う」と地元民は言っただろう。「彼はそんな人じゃない」と。
去年、石油とガスの産業が下落して、大手企業全てが、従業員解雇を余儀なくされた。
そして今度は、ケビンデュラントもいなくなった。
それでもサンダーは先へ進む。シアトルから移ってきた時から、フランチャイズはこの日のために計画してきたのだ。
もちろんデュラントが出て行くようにではなく、残留するように、ではあるが。
サンダーは、絶頂期に向けて共に成長できるよう、若いコアメンバーを揃えることに取り組んできた。
2007年のデュラントに始まり、その後2008年のウェストブルック、サージ・イバカ、さらに2009年のジェームス・ハーデンと続いた。
そして今、ウェストブルックだけが残った。
サンダーは、NBAがもてはやすスモールマーケットの輝く希望の光で、王朝になる可能性を秘めながら王朝にはなりきれなかったチームだ。リーグからのメッセージは、頭のキレるマネジメントとコミットしたオーナーシップがあれば、チームが成功するのに認知度の高い郵便番号は必要ない(地域は関係ない)ということだった。
それが今となっては、ウェストブルックのFAを1年以内に控え、残酷なプロスポーツ界によって全てが崩されるという、厳しい現実にサンダーは直面している。
ここから時間をかけて自分たちのオプションを検討するとは言いつつも、サンダーが最初にすることは、長期契約にコミットしてくれることを願って、フランチャイズの鍵をウェストブルックの手に渡すことだ。
もしそれが叶わず、デュラントがしたように、もしウェストブルックもFAの感触を確かめたいとなると、サンダーはウェストブルックをトレードすることも考慮しなくてはいけなくなる。
今回のこのプロセスは常に、デュラントを説得する、ということにかかっていた。しかし、例えば2013年、なんとなく『そんな気分』だったある夜に、当時の彼女のモニカ・ライトにプロポーズしたり、2011年に延長契約を結び、後になって後悔したりする、デュラントの衝動的な決断を下す傾向が、その状況を危ういものにしていた。
しかしそれでも彼はフランチャイズであり、サンダーはリスクをとることを厭わなかった。
しかしウェストブルックについては、サンダーは違う考えだ。とあるソースが2月の時点でこう言っていた。デュラントがいなくなることになったら、ウェストブルックは残る気持ちを強めるだろうと。
デュラントの離脱は強烈な一撃ではあるが、サンダーは痛烈な悪運と衝撃的な惨劇の両方を経験し、逆境に精通している。
ウェストブルックの怪我、デュラントの怪我、そしてサージ・イバカの怪我によって、優勝を期待されたシーズン全てが狂わされた経験がある。デュラントは、あと一歩の惜しい状況について常に冷静で、原因となった事実(多くの選手の怪我)を即座に指摘したものだ。
そんな中で、2016年のシーズンは彼らのチャンスだった。ロスターは皆健康でプレイオフに向けて万全だった。優勝か失敗かという絶対的な状況を、デュラント自身がないがしろにしたが、明らかに2016年は、サンダーにとっていちかばちかのシーズンだった。
サンダーは67勝チームのスパーズを破って勝ち進み、73勝チームのウォリアーズ相手に3-1まで行った。第6戦をホームで戦い、即位の瞬間が、トンネルの先に明るく輝く光が、すぐそこまで見えていた。
試合終了6分前まで、サンダーは7点リードしていた。試合終了3分前でも、まだ3点リードしていた。それなのに、108対101でサンダーは負けた。
デュラントは、第4クォーターで2つの致命的なターンオーバーをし、7本中1本の4点しか得点できなかった。そしてサンダーはオラクルアリーナで第7戦を落とした。
サンダーは、スティーブン・アダムスの股間を蹴ったドレイモンド・グリーンに、フレグラントポイントを重ねさせることでウォリアーズを弱小化させた。NBAファイナルの第5戦で、さらにもうひとつローブローをしたことでグリーンが1試合出場停止になり、キャブスが第6戦と第7戦に勝ち、世界を驚かせた。
ウォリアーズは、準優勝者として優勝を逃した今だからこそ、デュラントに対して「君がいれば、こんなことは起きなかった」というセールストークができた。
股間を蹴り、レブロン・ジェームスが最高のブロックを決め、カイリー・アービングの勝利を決定づけるプレイがあったからこそ、ウォリアーズは突如として史上最高の最強チームではなくなった。そして彼らはヘルプが必要だと訴え出した。
そこにはもちろん、他のロジスティックな不運もある。新しいTV資金の流入と、その上昇をなだらかにすることにリーグと選手が同意できなかったために、サラリーキャップが天文学的なレベルに跳ね上がり、その結果ウォリアーズに、コアメンバーを手放すことなく、デュラントのような選手を加える機会を与えることになったのだから。
2011年のロックアウトは、この類のチームが集まることを防ぐことが目的だった。それが一転、新しいキャップによって可能になってしまったわけだ。
サンダーが間違った決断をしたことに疑いはない。ハーデンのトレードは今となってみれば今後さらに酷評されるだろう。優勝の好機は貴重だということだ。
(2014年に説得を試みたが、最終的に都市の規模からシカゴを選んだ)パウ・ガソルのようなフリーエージェントを獲得できないことにも、デュラントはフラストレーションを溜めていた。「誰もOKCでプレイしたがらない」と、獲得失敗をプライベートで嘆いた。
デュラントは、サンダーの若手を育てる計画は、ポストシーズンに勝つための手段ではないと信じ、しばしばプレスティにもっとベテラン選手と契約するように話していた。
しかし、その全てを通して、サンダーはプロスポーツ界で最も継続維持可能(サステイナブル)で成功しているチームのひとつを築き上げた。
サンダーは、ハーデントレード後の2012以来、(スパーズを除く)どのチームよりも多くの試合に勝ち、過去6回のカンファレンスファイナルのうち4回に出場している。
サンダーは、かろうじてなんとかポストシーズンに進むような中間階層のチームではなかった。
サンダーは勢力だった。
逆境にあってさえ、サンダーはまだ強化を続ける立場にいた。
驚くべきドラフトナイトのトレードで、サンダーはビクター・オラディポを獲得した。デュラントは友人に対し、このトレードを絶賛したという。
サンダーは、デュラントをキープするために正しいと感じるプランを実行していた。
1年前、デュラントは戻って来ると言っていた。それは、サンダーが67勝のスパーズを第6戦で打ち破り、ウォリアーズに3-1と勝ち越す以前のことだ。
サンダーの言い分は明確だった。
『ここに残ってくれ、そしたらやり残した仕事を終わらせることができる。』
過去数年間、デュラントはメディアと衝突してきた。全ては、2015年のオールスターウィークエンドに、ブルックスを擁護するために文脈を無視して引用したところから始まり、今シーズン始めにコービー・ブライアントの扱いについてメディア批判するまでにエスカレートした。
彼は自分のコメントの受け取られ方に個人的にフラストレーションを覚えていた。自分のメッセージが正しく伝わらず、誤解されていると感じていた。
ある者はそれを、家に連れて行って母親に会わせられるスーパースターから、NBAの悪役への、デュラントの進化だと、ブランドの変化だと捉えた。
誰もが同じ質問をし続けた。
デュラントは変わったのか?と。
デュラントは自分が変わったという考えを否定した。自分は同じ人間だと、ただ歳を重ねて、賢くなって、より成熟しただけだと彼は主張した。
彼は(『Next Chapter』と題した)手紙の中で、これは進化に向けた次のチャレンジで次のステップだと言った。
コリソンとウェストブルックとのミーティングは、デュラントが戻るという希望を与えた。
サンダーとの最初のミーティングはポジティブなものだった。
一年を通してずっと、デュラントの側近たちの言葉は、そしてデュラント自身が言い、行った全てのことは、デュラントがオクラホマシティ寄りに傾いていることを示していた。
じゃあ、一体何が変わったのか?
変わったのは、デュラントだ。
元記事:The changes that led to Kevin Durant’s OKC departure by Royce Young